地名の由来が一目でわかる!


by baba72885

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「残念だ、悔しい、おらが信州の藤村でなくなる」と、藤村が命の合併反対派は口々にこう嘆き、日々の生活が命の賛成派は、長年の夢がかなったと大歓迎の木曽馬籠だ。天下の大新聞が「藤村を生んだ馬籠が信州でなくなった」と書きたてた。田中康夫前長野県知事が反対したにもかかわらず、平成十七年二月十三日、長年の生臭い紛争の果てに、中山道馬籠宿のある長野県木曽郡山口村は岐阜県中津川市に越県合併をした。田中知事は「馬籠は信州人の精神文化の礎とも呼ぶべき地」と語っていたが、ここに二つの大きな誤謬が含まれている。そのひとつは、木曽馬籠は長野県から岐阜県になっただけのことで、信州の馬籠であることに変わりはないということだ。当時「馬籠が信州でなくなった」と書いた新聞記者の見識の無さに唖然ととしたものだが、長野県と信濃国をはき違えているのだろう。昭和、平成の大合併や道州制が導入されようと、律令政府の制定した旧国はびくともしない。二つ目は、田中知事が「精神文化の礎」と述べたように、藤村をはじめ、馬籠の人々が信州人であることをどれほど意識していたかということである。結論的には、藤村も一般の人々も信濃よりも、木曽人としてのアイデンティティが強く、馬籠は決して「信州の精神文化の地」になりえていないのだ。木曽谷を走る中央線の駅の名は「木曽福島」、「木曽平沢」であり「信濃~」ではない。                                                        文豪島崎藤村は明治五年三月、筑摩県馬籠村の庄屋・本陣の家に生まれた。明治十四年、地元の神坂学校から、東京の泰明小学校に転校し、卒業後は三田英学校から明治学院に転じた。その後教師の時代を経て、文筆活動に専念した。「木曽路はすべて山の中である」という書き出しの代表作「夜明け前」の全編をとおして、彼のふるさと馬籠への愛着を強く感じる。藤村の研究者である長島俊之氏によると、「藤村の作品を通じていえる事は、彼の血につながるふるさと馬籠は、あくまで『木曽の馬籠』であって、『信濃の馬籠』という観念は感じられない」ときっぱり言い切っている。木曽は木曽であり、信濃とは一線を画しているようでならない。実は木曽は元慶三(879)年に美濃国(現岐阜県)として確定して以来、江戸中期ごろまで美濃国として扱っている古文書が多い。平安末に生きた木曽義仲は、美濃国木曽谷の中原氏ににかくまわれていたことになる。幕藩体制では尾張領であった木曽の人々は、信濃国とか美濃国とかの意識は無く、尾張藩領木曽の民として生きてきた。                                 木曽の人々が信濃を意識しはじめるのは、決して古いことではない。明治三十二年に長野県が県歌「信濃の国」を制定したことに始まる。長野県のホームページに「内容はお国自慢の歌であるが、山に隔てられ、バラバラになりがちな県民の心を一つにする役割もあった」としている。長野県は明治九年の立県以来、旧筑摩県民や旧藩領民としての意識が強く残っている県民も多く、松本、伊那、佐久、善光寺の四つの平と木曽谷はそれぞれ独自の地域性を持っていた。県民の心を一つにするためにはこの歌が必要だったのだ。以来、長野県民は「信濃の国」を歌い継ぐことにより、信州人としての仲間意識が全県下に浸透していった。馬籠の人の中には信州に陶酔してしまった人も多かったが、また、藤村のように、あくまで木曽人として生きたいという信念の人も数多かった。                                           今馬籠は、賛成派、反対派とも多少のしこりはあるものの、時代の流れに沿い、信州木曽の馬籠、藤村の馬籠を大切にしながら、岐阜県中津川市民として新しい未来に向けて豊かな歩みを続けている。             ところで「岐阜県民の歌」があるのをご存知だろうか。平成24年の岐阜国体で歌おう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
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by baba72885 | 2007-09-28 20:46
城があるのに、シロガネーゼ                                         『・・川上啓子は長者丸の街から見上げる、その景色が好きだ。「長者丸」というのは、昭和四十二年までは「品川区上大崎町長者丸」とよばれていた町の名で、・・・たぶん伝説だろうけれど、鎌倉から南北朝時代のむかし、芝白金には白金長者というのがいて、その長者の館か何かがあった土地ではないかという。・・』(内田康夫著「皇女の霊柩」 新潮文庫 P12)         東京港区の白金(しろかね)の地名由来については、誰が最初に述べたのか、何をひもといても白金長者から地名がついたとしている。                                          「白金」の真実は「城ヶ根(しろかね しろがね じょうがね)」である。「ね」とは「うね 畝」「みね 峯」「おね 尾根」「むね 棟」「やね 屋根」のように、周囲より高い部分の地形を表している。もともとの漢字は「高嶺の花」というように「嶺」であるが、ほとんどの場合「根」という字を使っている。「城ヶ根」地名は中世の豪族屋敷村の城や砦、館のある高台や小山、尾根等を表している。愛知県豊田市城ヶ根には「御作城」があり、岐阜県中津川市城ヶ根には「広恵寺城」があった。また、愛知県瀬戸市城ヶ根町も髙い尾根の上にあり、古城のあった場所だ。                 さて、今一度「白金長者」伝説を追ってみよう。港区白金台にある国立自然教育園には「白金長者屋敷」という古城址があり、今も土塁が残っている。この長者は応安年間(14世紀後半)にこの一帯を支配していた豪族の柳下上総之介のことで、幾多の白銀を蓄えていたところから「白金長者」といわれるようになったという。豪族(長者)が上総之介かどうかの真偽はともかく、この台地に豪族の居城があったことは確かである。地形的には海岸段丘である荏原台地に属する白金界隈は、江戸時代には白金原と呼ばれた原野であったという。いつしか人は、この砦館のある高台を「城ヶ根 しろがね」と呼び、「白金」という瑞祥地名の好字に変えられたあと、長者の伝説を流布させたのだろう。                                       一方、皇居外濠から神楽坂を上り詰めると、牛込台地に新宿区白銀(しろがね)町がある。平安末から鎌倉時代にかけてこのあたりは秩父重継が支配していたといわれ、その砦か居城があったかもしれない。その後、太田道灌の江戸城が長禄元(1457)年に完成したが、谷を挟んで家臣の支城がこのあたりにあったかもしれない。さらに天文24(1555)年に上州の大胡氏がここに移り住み、牛込氏を名乗ったとされ、牛込袋町の光照寺境内にある土塁から、ここに牛込城があったという言い伝えもある。白銀町もやはり「城ヶ根」がその由来であり、芝白金の地名由来を補強してくれている。千葉県佐倉市白銀もやはり「城ヶ根」である。その城は隣接する千葉県酒々井町本佐倉にある「本佐倉城」とその向かいにある「向根古谷城」のあった山である。青森県八戸市白銀町にも「堀の内」「堀の外」等という地名があり、豪族屋敷村を思わしめる。                                         「根」の話を続けよう。                                            先の小説は芝白金と中津川市馬籠を結ぶミステリーだ、その6ページの地図の上、国道19号線を木曽谷に向かって走ってみる。岐阜県恵那市武並町から恵那市街地に入る峠を「槙ヶ根(まきがね)峠」という。市街地を抜けると「雀子ヶ根(すずめこがね)」という解析扇状地の丘陵部を通る。国道はやがて中津川市に入り「与ヶ根(よっかね)」を過ぎ、市街地東部を通過すると「上金(うえがね)」がある。中山道が貫くそこは、「上ヶ根」を意味し、市街地から見えるその高台は「旭ヶ丘」という名で親しまれている。やがて左手に木曽谷の入り口の坂下が見えてくる。そこには「時鐘(ときがね)」、「上鐘(うえがね)」があり、いずれも台地状の尾根になっている。木曽谷の南木曽町田立には「大野正兼(おおのしょうかね)」があり、同じく南木曽町の北部には「十二兼(じゅうにかね)」がある。                                   奥日光の白根山や群馬県の草津白根山,南アルプス白根山は、まさに美しく白い峰の、ザ「白嶺(しらね)山」 であろう。霊峰、秀峰の麓には、長野県駒ヶ根(木曽駒ケ岳)、御殿場市高根(富士山)、山形県東根(奥羽山脈)、福島県滝根(大滝根山)、山梨県北杜市高根(八ヶ岳)、岐阜県高山市高根(御岳・乗鞍岳)、愛知県豊根(茶臼山)のように「根」のつく地名がある。一見すると「根」は麓の意味ともとれそうだが、そうではなくて、眼前の偉容を誇る高嶺を見上げて命名したのだろう。群馬県の赤城山を昔は黒峰(くろほ)といった。今その麓には桐生市黒保根(旧黒保根村)の地名が残る。 まさか、木曽駒ケ岳の根元にあるから「駒ヶ根市」としたというのでは、興ざめで悲しすぎる。                                                   左 《白金台の自然教育園》        右《瀬戸市城ヶ根町》c0134145_2243573.jpg                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           c0134145_18534056.jpg
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by baba72885 | 2007-09-22 21:01
「よだれ」と同じ地名の町                                                         東京の旧名「江戸」の地名由来は次の三説に分けられる。                       ① 「えど」は「よど」の訛ったもので、水がよどんだ低湿地                       ② 「え」はかつての日比谷入江の「江」で、「ど」は「門(と)」であり「入り江の入り口」                            ③ 「えど」は「いど」の訛音であり、湧水地を表す井戸のある場所                 埼玉県川口市南部で毛長川は大きく南に湾曲している。西を鳩ヶ谷市、南を東京都足立区に接したこの湾曲の内側に「江戸」と「江戸袋」という地名があり、すぐ北にある「西沼公園」や「蓮沼」の地名は沼地を思わせる。「袋」は地形的に袋小路になっており、排水が滞りやすい低湿地につけられる地名だ。「池袋」や「沼袋」などが各地に見られる。つまり「江戸」や「江戸袋」はまさに「水が淀み、悪水が溜まりやすい低湿地」を意味する。                           ②の説は、「江」や「戸」という漢字に惑わされており、地名由来にはあたらないと思う。もしそうであるならば、日本各地の入り江付近にたくさん「江戸」地名があっていいはずである。③の説は、都丸十九一著「地名研究入門」(三一書房 1995)によるもので、群馬県下において「えど」を付した小字名を20ヵ所以上踏査した結果、例外なく湧水(井戸)があったという。実証的で貴重な結論だが、東京の「江戸」に当てはめるには無理がある。「江戸」地名は大阪のど真ん中にもある。大阪市西区江戸堀は中之島の南、土佐堀、京町堀と並んでその存在を誇示しているが、それはあたかも甲子園で威勢を張るわずかな巨人ファンがいるかのように。しかし、東京ドームで気勢を上げる阪神ファンの立場のような地名が、東京のど真ん中にもあるのだ。淀や淀川は京阪のシンボル、豊臣時代、「淀城」に拠った淀君は誰でも知っているし、幕末の「淀城」は鳥羽伏見の戦いのあとの官軍と新撰組など幕府方が戦った戦場だ。大阪の豪商「淀屋」がかけた「淀屋橋」や福島区大淀、高槻市淀の原町は淀川の名からきている。さて、東京の「よど」は「淀橋」の名で残り、「ビック」のライバル名としても闊歩している。 「淀橋」という名の橋は、青梅街道が神田川をまたぐ橋であり、現在の西新宿から北新宿にかけての地域は、かつて東京府豊多摩郡淀橋町といわれた。数少ない「淀橋町」の残照として、「淀橋給水所」「淀橋教会」淀橋市場」「淀橋幼稚園」「淀橋第四小学校」がある。廃校となったビルの谷間の第三小学校を訪れたら、そこの門には「芸能花伝社」という表札が掲げてあった。第四小学校はナンバースクール淀橋小学校の唯一の生き残りである。新宿駅や都庁あたりと比べて神田川界隈は10メートルほど海抜が低く、左右に牛丼屋を見ながら歩く青梅街道の成子坂は緩やかな下り坂だ。旧淀橋町の西北部は、確かに神田川が淀んで流れる低湿地になっていたと思われる。                                  徳川家光が京都伏見の「淀」にちなんで「淀橋」と名付けたと書いてある江戸時代の古文書があると言うが、いきなり「淀」に思い当たるはずもないので、その辺りが「よど」と呼ばれていたから京都の「淀」に因んでつけたと思われるが、この逸話も眉唾物だ。                                                東京の旧名が「江戸」地名の代表格なら、京都市伏見区淀はその知名度といい、地形のありさまといい全国の「淀」地名の総帥である。そこは木津川、宇治川、桂川の三川が合流し、古代から舟運の要所であるが、川水が常に淀んだ湿地である。京阪淀駅西隣の「淀城址」には与杼(よど)神社があり「よど」の地名はとてつもなく古くからあることが分かる。ただ、現在その界隈は通勤客の駐輪場になっており、町内会のお年寄りがせっせと整理している。兵庫県佐用町淀、岡山県井原市淀は、いずれも山間地の小さな谷奥にある。北海道蘭越町の淀川は尻別川と淀川の合流地点にあり、両河川はこの付近で蛇行し淀んだ流れであることをよくあらわしている。                                                「江戸」と「淀」は同じ地形名がその由来である。水の淀んだ低湿地。これにて一件落着! ところで、長崎市の江戸町は江戸開府を祝してつけられたというし、長崎県島原市江戸丁は、幕末に江戸詰めの藩士が帰郷して住んだ町である。                                                             1970年3月31日、日本航空351便がハイジャックされた。機種はボーイング727型で、その愛称は「よど号」であった。なんと、当時の日航は飛行機の愛称に川の名前をつけていたのだ。「よど号」は淀川から命名された「淀号」だった。                        《川口市江戸の江戸袋第2公園》      《淀城の石垣とお堀》                                                                                                                                                                                                            c0134145_18355428.jpgc0134145_2048325.jpg
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by baba72885 | 2007-09-12 20:38

内陸の「島」「浦」地名

島でない島、浦でない浦 
「島」地名は全国的に最も多く分布する地名の一つであり、その響きは村の古い歴史を感じさせる。「シマ」は川沿いの耕地という意味や、囲碁で自分の陣地を確保することを「シマル」というように、一定の領域を意味する。転じて、一つの集落を「~島」というようになった。松本市の旧安曇村に「島々(しましま)」という念入りな「島」地名がある。上高地から流れてくる梓川と島々谷川の合流点にあり、わずかな平地と山麓斜面に集落がある。対岸にはささやかなたたずまいの「竜島」という地名もある。まさに、内陸山間地の「シマ」地名の見本のようなところだ。演歌の「中之島ブルース」に歌われた各地の中島のように、川の中洲を「~島」というのは、そのありさまが海に浮かぶ島を連想してのことである。信玄と謙信の合戦で有名な長野市の「川中島」は犀川と千曲川の合流する三角地帯であり、中州の中島ではない。全町域が木曽川の中洲から成り立っている岐阜県川島町は、その名のとおり川中島になっている。茨城県筑西市周辺には田子島・飯島・長島・延島・猫島・海老島・谷永島等が集中し、富山県礪波平野、静岡県磐田市、佐賀市東方地域等にも多いのが目に付く。                    「浦」地名は、川の上流や山の斜面の上部を示すが、そのほとんどが「うえ→うれ→うら」と変化しているものだ。たとえば「川上」が「かわうえ→かわうれ→かうれ→かおれ」となる。余談だが、岐阜県中津川市の中津川上流には、恵那文楽で有名な川上(かおれ)地区があるが、最近旧恵那郡川上(かわうえ)村を合併したことで紛らわしくなった。そのうえ、市内の銘菓「栗きんとん」の老舗は「川上(かわかみ)屋」という。市民は3つの「川上」をうまく使い分けて呼んでいる。  内陸の「浦」地名は、海岸部に「浦」地名がほとんど無い東北地方には少なく、秋田県湯沢市外浦、岩手県岩手町雪浦、宮城県大崎市福浦等は貴重な地名だ。内陸部に住む人が、その地方の海岸部にある「浦」地名を強く意識している証拠ではないのか。熊本県上天草市の山間部にある、山浦、中津浦、楠浦、沖の浦は明らかに海辺の「浦」地名の影響を受けている。長野県王滝村三浦(みうれ)は木曽川の支流王滝川の最上流部にあたり、やはり接頭語の「み」と「浦」地名と思う。ちなみに、地元では、中世に相模国で栄えた三浦一族の一派が木曽の奥地に落ちてきて、ひっそり住み着いた故の地名だとしている。地図に拾った内陸の「浦」地名を列記します。それぞれに地名の由来を考えてみてください。「漆日浦・東浦・日浦・影浦・南浦・深浦・白浦・中之浦・小浦・東海浦・山浦・浅浦・上浦・勝浦・井出浦」等々                         《松本市安曇の島々》集落は平野の塊村のように狭い路地に密集している。上高地への徳本(とくごう)c0134145_2164255.jpg峠越えの入山基地  当日も某大学登山部のパーティーが数人入山していた。                                                                                                                                                                                                                                                                                        
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by baba72885 | 2007-09-11 21:43
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 山の中は「なぎさ 渚」だらけ
「渚」を聞くと、その人は言う「昔ここは海だった」と。確かに間氷期の縄文海進や古瀬戸内海が中部地方の内陸に深く入り込んでいた時代もあったが、その記憶を歴史時代になって地名にするということは荒唐無稽な話である。岐阜県高山市久々野町渚(なぎさ)は、飛騨川が深く刻んだ峡谷にある地名だ。その険しい崖っぷちを、高山本線と旧飛騨街道、国道41号線が走っている。高山本線「渚」駅は無人駅で、JR保線の関係者と、林業や土木関係の生業を営むわずかの人が住んでいる。「なぎさ」の意味は「海や川の波打ち際」のほかに、「なぎ:険しい崩壊地や侵食地形」と「さ:狭いところor接尾語」の地形名だ。久々野の「渚」はまさにこの地形の典型だ。「渚」地名は長野県松本市にもある。松本電鉄上高地線に「渚」駅があり、周辺は工場(現在はなぎさライフサイトとなっている)や住宅地となっているが、造成される前はかなり厳しい場所だったと推測される。現地は、南西から木曽谷を源流とする暴れ川の奈良井川が、南から田川、東からは薄(すすき)川、女鳥羽(めとば)川 が合流している三角形の狭い土地である。時には洪水で侵食されることもあるが、河川の運搬した土砂や砂礫が堆積している不毛の荒地だったであろう。そのあたりに見える「白坂・巾上・荒井」等の地名もそれを物語っている。大阪府枚方市渚は淀川の左岸にあり、川の波打ち際を意味する。                                さて、「なぎさ」から転訛した「なぎそ」が信州木曽谷にある。木曽郡南木曽町(なぎそまち)は昭和36年に当時の読書(よみかき)村(与川・三留野・柿其の合成地名)、吾妻(あずま)村(蘭・妻籠の合成地名)、田立村の三村が合併してできた町だが、合成地名の名人芸ももはやこれまでであった。新しい町名はそこに聳え、信仰の山として親しまれている「南木曽岳」の名をいただくことにした。南木曽町は木曽谷の南端にあり、名は体を表しているかに見えるが、実は違う。南木曽岳自体、登山道には鎖場があるほど険しい山体であり、以前から「奈岐蘇岳・中岐蘇岳」と記録にあることから「なぎ・そ岳」と考えられ、「南木曽」の表記は木曽を意識した当て字であることがわかる。旧読書村柿其(かきぞれ)地区に「梛野(ないの・なぎの)」の地名が見えることや、「木曽」の地名が「岐阻」と表記されていることもあり「なぎ・きそ・なぎそ」は山の名前のみならず険阻な木曽谷の地形名としてこのあたりに流布していたと思える。                   岡山・鳥取の県境にある「那岐山(なぎのせん)」も「なぎ」地名で、北には八頭郡智頭町那岐があり、南には勝田郡奈義町がある。名家美濃遠山氏1万石の城下町、中津川市苗木(なえぎ)町も、元来の表記は「那木(なぎ)」であり、その地名の起こった地は木曽川に臨む断崖絶壁を控えた場所である。なお、群馬県館林市苗木町は、館林城主が一時中津川市苗木を手にした(「苗木明細記」による)縁による地名だ。                              左 《松本市の渚c0134145_1843573.jpg》  右《南木曾岳と読書発電所》c0134145_2125666.jpg                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
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by baba72885 | 2007-09-10 20:53
 内陸住民は、海が好き。                                                 電話の向こうから「そんな地名は聞いたことがないですが、役場に訊いてみたら・・・」「今は使われておりませんが・・・」という親切だが虚ろげな声は「上海」の近くにある「黄海小学校」の男先生と、町役場の女性職員の丁寧な回答だった。5万分の1地形図にも、市販の道路地図にも載っている「上海」という地名は住民の記憶から消え去ってしまったのか。ここ日本国岩手県東磐井郡藤沢町には確かに「上海」があり、そのすぐ南には「黄海」もあって「きのみ」と読む。   藤沢町は、「縄文の炎の燃える陶芸の里」のキャッチフレーズのもと、毎年8月には「藤沢野焼き祭り」で気炎を上げ、特産の焼き物や「館ヶ森アーク牧場」・「リンゴ園」等の豊かな農畜産物で町の活性化を図っている。しかし、累積債務がかさみ、新一関市への合併協議会に参加できなかったこの町は、今なお懸命に財政の建て直しを講じながら、一関市への合併をめざしている。「上海」を甦らせ、北上の「上海(シャンハイ)」ラーメンと銘打って売り出し、得意とする新鮮な農畜産物(豚肉、ハム・ソーセージ、昔卵、各種野菜・果物)を生かした中華風「黄海(こうかい)丼と鍋」で村おこしの一翼を担ったらどうかなどと思うのは、あかの他人の妄想か悪趣味であろうか。                                                    「きのみ」といえば、岐阜県恵那市上矢作町に「木の実」という地名がある。集落の背後にある「木の実峠」ではかつて、美濃の争奪戦で織田軍と武田軍が死闘を繰り広げた。また、福井県敦賀市には「木ノ芽峠」があるのだが、「きのみ・きのめ」の意味は、尾根にある分かれ目の事だ。                 その上矢作町には「海」という地名があり、正真正銘「うみ」と発音する。矢作川の支流の上村川の右岸にある集落である。美濃三河高原の山間に「海」地名があるということでその由来が取りざたされてきたが、地形名であることは明白である。そこでは、背後の山地から山水が始終にじみ出ており、土地が常に「熟・膿(う)」んだ状態になっていたありさまからつけられたのだろう。 「海」を「うみ」と発音する地名は他に、長野県上田市海野(うんの)、同県南佐久郡南牧村海尻・海ノ口、同郡小海町、静岡県榛原郡川根本町海久保、岐阜県本巣市神海(こうみ)等があるがいずれも上矢作の「海」と同様の由来と思われる。松本市には上海渡や梶海渡が、安曇野市には北海渡という地名がある。先の藤沢町の上海はこの「かいと」の「と」が省略されたものかもしれない。、長野県駒ヶ根市南海(なんかい)、山梨県大月市阿弥陀海(あみだがい)、山形県大江町道海(どうかい)等も同じく省略形だろう。いずれも狭隘な場所や山の斜面にあり、谷に関する地名か開墾地ともおもわれる。岐阜市水海道(みずかいと)等は全国的に見られる、垣内(かいと)集落の例である。岩手県二戸市の海上(かいしょう)、愛知万博が開催された瀬戸市海上(かいしょ)の森の「かいしょ」は開墾地の可能性があるが、豪族か何者かが囲い込んだかいしょ(垣処)かもしれない。また、「海」を「み」と発音する地名は、接尾語の「み」(例 塩見・遠見・温見・高見)の用法か「うみ」の短縮形だと思う。名古屋市鳴海(なるみ)、佐賀県武雄市鳥海(とのみ)がそれである。名古屋の鳴海には延喜式神名帳にある「成海(なるみ)神社がある。鳴海は、海が鳴るという意味ではなく、緩(なる)い丘の意味だ。島根県雲南市海潮(うしお)温泉の名は、地形名とは違い温泉成分を意味する「塩」地名であり、「う」は接頭語である。温泉観光地にふさわしく、好字で表記したのだろう。 海のない山間地に暮らす人は、「海」の字を使いたいのが人情だ。愛媛県伊予市中山の「月の海(つきのさこ)」「赤海(あかさこ)」は急斜面にへばりつくようにしてある集落名だ。一体何の意味だろうか、謎めいた地名だ。       
       太感謝! 各地のお役所の皆さん、電話での聞き取りに快くお答えいただきました。それにしても東北から九州まで、ほとんど標準語での応対には期待はずれで一抹の寂しさを覚えました。            左《名古屋市鳴海町の根古屋(鳴海)城跡》の地名                                                                                                                                                                                            c0134145_1830433.jpg
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by baba72885 | 2007-09-07 21:19
服部英雄著(「地名の歴史学」角川叢書 2001,4 三版)によると大和国、山城国、近江国での古絵図をもとに、残存地名の実地調査を行い、鎌倉時代の地名の半数(場所によっては8割近く)、室町時代の6~7割以上が残存し、通称地名を収集すれば残存率はさらに高まるとしている。中世以前の地名についても、かなりの残存率を示すのではないかと思われ、地名は一度つけられると、みんなが同意しただけに簡単に変えたり、消えたりはしないのだろう。みちのく仙台周辺の地名を五万分の一地形図に拾い、簡便な分類をしよう                               ① 自然地名                                                    仙台の自然地名は西部の山地、丘陵部に「窪・松倉・大谷地・塩野沢・塩ノ瀬・赤坂」等、海岸平野に「赤沼・四ツ谷・荒浜・平」等があり、見た目を素直な言葉に表したものだ。たとえば、「塩野沢・塩ノ瀬」は全国に分布する「塩」地名と同じく「しぼむ・しおれる」という言葉からつけられており、現地は山間地のしぼんだような小さな浅い谷地形である。広瀬川と名取川の合流点の河岸段丘上にある「欠ノ上」はもちろん崖の上のことである。他、それぞれ の地名の由来を考えてみてください。                                  ② 歴史的標準化石地名                                            ○ 古代・・・・「多賀城」は古代律令国家の東北経営の根拠地となった地であり、陸奥国の国 府の機能も果たしたあまりにも有名な地名だが、その由来は良くわからない。ただ、漢字の「多賀」は縁起のよい瑞祥地名だ。「三条町・五反田」は古代の条里制に関する地名だが、青葉区北山の「三条町」は水田地帯でないので条里遺構とは思えない。           ○ 中世・・・・「四郎丸」は、四郎丸という農民が開拓した荘園の私有地を示しており、全国的には「~丸・~名・~光」等の人名が見られ、これを「名田百姓村」という。「要害・舘・高館」等は関東から東北にかけて割拠した豪族の居住地である「豪族屋敷村」であり、中部から西日本には「根古屋・箕輪・土居・堀之内」等の地名が見られる。「宿」地名は江戸時代の宿場町とは違って、いざ鎌倉街道の宿駅である。「三日市・今市」はそのものズバリで、定期市場の開かれた場所である。「北在家・中在家」の「在家」とは、中世には屋敷・田畑を持つ富裕農民のことで、近世では本百姓にあたる。                                ○ 近世・・・・戦国・江戸時代には城下町の整備が進み、武家屋敷の外側に職能別に町人町が形成された。青葉城下には「鉄砲町・南材木町・南鍛冶町・穀町・川内大工町」等が見える。また、江戸時代の諸藩は競って新田開発を行い、新たな居住地に新地名が誕生していった。若林区の「藤田新田」は藤田某が開発した新田に違いない。他に「新田・上新田」がある。「街道・新宿・二軒茶屋」の地名からは江戸時代の香りがしてくる。       ○ 近現代・・・明治以降度重なる合併促進による「合成地名」や「瑞祥地名」、公募で名づけられた団地やニュータウンが出現した。仙台の団地名は現地の地名をかぶせたものが多く「錦ヶ丘・住吉台・茂庭台」等落ち着いた名前である。「栄・あけぼの町・日の出町・県道 前」も一目でわかる現代地名で、その由来は言うまでもない。                  その他、「神明・念仏・庚申・若宮前・太子堂・寺前・山神・明神」のように、通俗・信仰に関する 地名が非常に多いのが目に付く。「今成・三所・古内・八乙女・国見・種次・余目・舞台・小角・愛子・田子」等ここ仙台は何故か魅力的な地名が多い。その由来もきっと奥深いものだろう。                                       
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by baba72885 | 2007-09-01 20:54