地名の由来が一目でわかる!


by baba72885
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 山の中は「なぎさ 渚」だらけ
「渚」を聞くと、その人は言う「昔ここは海だった」と。確かに間氷期の縄文海進や古瀬戸内海が中部地方の内陸に深く入り込んでいた時代もあったが、その記憶を歴史時代になって地名にするということは荒唐無稽な話である。岐阜県高山市久々野町渚(なぎさ)は、飛騨川が深く刻んだ峡谷にある地名だ。その険しい崖っぷちを、高山本線と旧飛騨街道、国道41号線が走っている。高山本線「渚」駅は無人駅で、JR保線の関係者と、林業や土木関係の生業を営むわずかの人が住んでいる。「なぎさ」の意味は「海や川の波打ち際」のほかに、「なぎ:険しい崩壊地や侵食地形」と「さ:狭いところor接尾語」の地形名だ。久々野の「渚」はまさにこの地形の典型だ。「渚」地名は長野県松本市にもある。松本電鉄上高地線に「渚」駅があり、周辺は工場(現在はなぎさライフサイトとなっている)や住宅地となっているが、造成される前はかなり厳しい場所だったと推測される。現地は、南西から木曽谷を源流とする暴れ川の奈良井川が、南から田川、東からは薄(すすき)川、女鳥羽(めとば)川 が合流している三角形の狭い土地である。時には洪水で侵食されることもあるが、河川の運搬した土砂や砂礫が堆積している不毛の荒地だったであろう。そのあたりに見える「白坂・巾上・荒井」等の地名もそれを物語っている。大阪府枚方市渚は淀川の左岸にあり、川の波打ち際を意味する。                                さて、「なぎさ」から転訛した「なぎそ」が信州木曽谷にある。木曽郡南木曽町(なぎそまち)は昭和36年に当時の読書(よみかき)村(与川・三留野・柿其の合成地名)、吾妻(あずま)村(蘭・妻籠の合成地名)、田立村の三村が合併してできた町だが、合成地名の名人芸ももはやこれまでであった。新しい町名はそこに聳え、信仰の山として親しまれている「南木曽岳」の名をいただくことにした。南木曽町は木曽谷の南端にあり、名は体を表しているかに見えるが、実は違う。南木曽岳自体、登山道には鎖場があるほど険しい山体であり、以前から「奈岐蘇岳・中岐蘇岳」と記録にあることから「なぎ・そ岳」と考えられ、「南木曽」の表記は木曽を意識した当て字であることがわかる。旧読書村柿其(かきぞれ)地区に「梛野(ないの・なぎの)」の地名が見えることや、「木曽」の地名が「岐阻」と表記されていることもあり「なぎ・きそ・なぎそ」は山の名前のみならず険阻な木曽谷の地形名としてこのあたりに流布していたと思える。                   岡山・鳥取の県境にある「那岐山(なぎのせん)」も「なぎ」地名で、北には八頭郡智頭町那岐があり、南には勝田郡奈義町がある。名家美濃遠山氏1万石の城下町、中津川市苗木(なえぎ)町も、元来の表記は「那木(なぎ)」であり、その地名の起こった地は木曽川に臨む断崖絶壁を控えた場所である。なお、群馬県館林市苗木町は、館林城主が一時中津川市苗木を手にした(「苗木明細記」による)縁による地名だ。                              左 《松本市の渚c0134145_1843573.jpg》  右《南木曾岳と読書発電所》c0134145_2125666.jpg                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
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# by baba72885 | 2007-09-10 20:53
 内陸住民は、海が好き。                                                 電話の向こうから「そんな地名は聞いたことがないですが、役場に訊いてみたら・・・」「今は使われておりませんが・・・」という親切だが虚ろげな声は「上海」の近くにある「黄海小学校」の男先生と、町役場の女性職員の丁寧な回答だった。5万分の1地形図にも、市販の道路地図にも載っている「上海」という地名は住民の記憶から消え去ってしまったのか。ここ日本国岩手県東磐井郡藤沢町には確かに「上海」があり、そのすぐ南には「黄海」もあって「きのみ」と読む。   藤沢町は、「縄文の炎の燃える陶芸の里」のキャッチフレーズのもと、毎年8月には「藤沢野焼き祭り」で気炎を上げ、特産の焼き物や「館ヶ森アーク牧場」・「リンゴ園」等の豊かな農畜産物で町の活性化を図っている。しかし、累積債務がかさみ、新一関市への合併協議会に参加できなかったこの町は、今なお懸命に財政の建て直しを講じながら、一関市への合併をめざしている。「上海」を甦らせ、北上の「上海(シャンハイ)」ラーメンと銘打って売り出し、得意とする新鮮な農畜産物(豚肉、ハム・ソーセージ、昔卵、各種野菜・果物)を生かした中華風「黄海(こうかい)丼と鍋」で村おこしの一翼を担ったらどうかなどと思うのは、あかの他人の妄想か悪趣味であろうか。                                                    「きのみ」といえば、岐阜県恵那市上矢作町に「木の実」という地名がある。集落の背後にある「木の実峠」ではかつて、美濃の争奪戦で織田軍と武田軍が死闘を繰り広げた。また、福井県敦賀市には「木ノ芽峠」があるのだが、「きのみ・きのめ」の意味は、尾根にある分かれ目の事だ。                 その上矢作町には「海」という地名があり、正真正銘「うみ」と発音する。矢作川の支流の上村川の右岸にある集落である。美濃三河高原の山間に「海」地名があるということでその由来が取りざたされてきたが、地形名であることは明白である。そこでは、背後の山地から山水が始終にじみ出ており、土地が常に「熟・膿(う)」んだ状態になっていたありさまからつけられたのだろう。 「海」を「うみ」と発音する地名は他に、長野県上田市海野(うんの)、同県南佐久郡南牧村海尻・海ノ口、同郡小海町、静岡県榛原郡川根本町海久保、岐阜県本巣市神海(こうみ)等があるがいずれも上矢作の「海」と同様の由来と思われる。松本市には上海渡や梶海渡が、安曇野市には北海渡という地名がある。先の藤沢町の上海はこの「かいと」の「と」が省略されたものかもしれない。、長野県駒ヶ根市南海(なんかい)、山梨県大月市阿弥陀海(あみだがい)、山形県大江町道海(どうかい)等も同じく省略形だろう。いずれも狭隘な場所や山の斜面にあり、谷に関する地名か開墾地ともおもわれる。岐阜市水海道(みずかいと)等は全国的に見られる、垣内(かいと)集落の例である。岩手県二戸市の海上(かいしょう)、愛知万博が開催された瀬戸市海上(かいしょ)の森の「かいしょ」は開墾地の可能性があるが、豪族か何者かが囲い込んだかいしょ(垣処)かもしれない。また、「海」を「み」と発音する地名は、接尾語の「み」(例 塩見・遠見・温見・高見)の用法か「うみ」の短縮形だと思う。名古屋市鳴海(なるみ)、佐賀県武雄市鳥海(とのみ)がそれである。名古屋の鳴海には延喜式神名帳にある「成海(なるみ)神社がある。鳴海は、海が鳴るという意味ではなく、緩(なる)い丘の意味だ。島根県雲南市海潮(うしお)温泉の名は、地形名とは違い温泉成分を意味する「塩」地名であり、「う」は接頭語である。温泉観光地にふさわしく、好字で表記したのだろう。 海のない山間地に暮らす人は、「海」の字を使いたいのが人情だ。愛媛県伊予市中山の「月の海(つきのさこ)」「赤海(あかさこ)」は急斜面にへばりつくようにしてある集落名だ。一体何の意味だろうか、謎めいた地名だ。       
       太感謝! 各地のお役所の皆さん、電話での聞き取りに快くお答えいただきました。それにしても東北から九州まで、ほとんど標準語での応対には期待はずれで一抹の寂しさを覚えました。            左《名古屋市鳴海町の根古屋(鳴海)城跡》の地名                                                                                                                                                                                            c0134145_1830433.jpg
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# by baba72885 | 2007-09-07 21:19
服部英雄著(「地名の歴史学」角川叢書 2001,4 三版)によると大和国、山城国、近江国での古絵図をもとに、残存地名の実地調査を行い、鎌倉時代の地名の半数(場所によっては8割近く)、室町時代の6~7割以上が残存し、通称地名を収集すれば残存率はさらに高まるとしている。中世以前の地名についても、かなりの残存率を示すのではないかと思われ、地名は一度つけられると、みんなが同意しただけに簡単に変えたり、消えたりはしないのだろう。みちのく仙台周辺の地名を五万分の一地形図に拾い、簡便な分類をしよう                               ① 自然地名                                                    仙台の自然地名は西部の山地、丘陵部に「窪・松倉・大谷地・塩野沢・塩ノ瀬・赤坂」等、海岸平野に「赤沼・四ツ谷・荒浜・平」等があり、見た目を素直な言葉に表したものだ。たとえば、「塩野沢・塩ノ瀬」は全国に分布する「塩」地名と同じく「しぼむ・しおれる」という言葉からつけられており、現地は山間地のしぼんだような小さな浅い谷地形である。広瀬川と名取川の合流点の河岸段丘上にある「欠ノ上」はもちろん崖の上のことである。他、それぞれ の地名の由来を考えてみてください。                                  ② 歴史的標準化石地名                                            ○ 古代・・・・「多賀城」は古代律令国家の東北経営の根拠地となった地であり、陸奥国の国 府の機能も果たしたあまりにも有名な地名だが、その由来は良くわからない。ただ、漢字の「多賀」は縁起のよい瑞祥地名だ。「三条町・五反田」は古代の条里制に関する地名だが、青葉区北山の「三条町」は水田地帯でないので条里遺構とは思えない。           ○ 中世・・・・「四郎丸」は、四郎丸という農民が開拓した荘園の私有地を示しており、全国的には「~丸・~名・~光」等の人名が見られ、これを「名田百姓村」という。「要害・舘・高館」等は関東から東北にかけて割拠した豪族の居住地である「豪族屋敷村」であり、中部から西日本には「根古屋・箕輪・土居・堀之内」等の地名が見られる。「宿」地名は江戸時代の宿場町とは違って、いざ鎌倉街道の宿駅である。「三日市・今市」はそのものズバリで、定期市場の開かれた場所である。「北在家・中在家」の「在家」とは、中世には屋敷・田畑を持つ富裕農民のことで、近世では本百姓にあたる。                                ○ 近世・・・・戦国・江戸時代には城下町の整備が進み、武家屋敷の外側に職能別に町人町が形成された。青葉城下には「鉄砲町・南材木町・南鍛冶町・穀町・川内大工町」等が見える。また、江戸時代の諸藩は競って新田開発を行い、新たな居住地に新地名が誕生していった。若林区の「藤田新田」は藤田某が開発した新田に違いない。他に「新田・上新田」がある。「街道・新宿・二軒茶屋」の地名からは江戸時代の香りがしてくる。       ○ 近現代・・・明治以降度重なる合併促進による「合成地名」や「瑞祥地名」、公募で名づけられた団地やニュータウンが出現した。仙台の団地名は現地の地名をかぶせたものが多く「錦ヶ丘・住吉台・茂庭台」等落ち着いた名前である。「栄・あけぼの町・日の出町・県道 前」も一目でわかる現代地名で、その由来は言うまでもない。                  その他、「神明・念仏・庚申・若宮前・太子堂・寺前・山神・明神」のように、通俗・信仰に関する 地名が非常に多いのが目に付く。「今成・三所・古内・八乙女・国見・種次・余目・舞台・小角・愛子・田子」等ここ仙台は何故か魅力的な地名が多い。その由来もきっと奥深いものだろう。                                       
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# by baba72885 | 2007-09-01 20:54
 白はホワイトではなく、赤はレッドとは限らない。                                      中部山岳地帯には、その名に黒、赤のつく山が多い。「大黒岳、黒姫山、黒岳、赤岳、赤牛岳、赤岩岳」と枚挙に暇がない。親しい登山家にきくと、おおむねその名は山体を形成する岩石の色を表しているという。朝日、夕日に映える峰が周辺の山々に比べて、特に黒く赤く見えるというわけだ。なるほど、八ヶ岳主峰の「赤岳」は、確かに噴出した安山岩、玄武岩の風化した鮮やかな赤い姿を朝な夕なに見せてくれる。                                  ところで、川の色についてはどうだろうか。岐阜県東南部に「二ツ森山(1223m)」がある。その山容が特徴的であり、比較的容易な登山ルートと日本アルプスを望む眺めのよさで人気がある。古くから、雨乞いの山として知られているが、今ではハンググライダーのメッカにもなっている。この山の周囲をめぐる川の名前に注目したい。「二ツ森山」の西側、加茂郡白川町、東白川村を西に流れ、飛騨川に注ぐ「白川」は途中で「黒川」と合流するが、「黒川」はまた南から流れてきた「赤川」とも合わさっている。一方、「二ツ森山」東側の中津川市には付知町、福岡を南流する「付知川」があり、「恵那峡」で「木曽川」に合流する。この川は地元では「青川」とか「緑川」と呼び慣わし、スナックや喫茶店の名前にもなっている。全国広しといえども、「黒・青・赤・白」の名の川が一箇所に揃っているのはここだけである。お気づきと思うが、この4色は古代中国の「四神」である「玄武(黒・冬)・青龍(青・春)・朱雀(赤・夏)・白虎(白・秋)」の色ではないか。高松塚やキトラ古墳の壁画を待つまでもなく、ここに川の名に姿を変えた「四神」が東美濃の大地をしっかり守ってくれているのだ。しかし、川の名が初めから「四神」を意識してつけられたとは思われない。この4つの川はいずれも鮎のとも釣りで賑わう渓流であり、川底まで透き通る清流だ。日本の山河を表現した「山紫水明」の明き水とは、何の汚れもない純粋にして清らかで透明な水のことであり、日本人は「明白」とか「白日」、「白水」といってその透明感を「白」で表した。「白川」とは、その水が無色透明で澄みきった川という意味だ。また、明(あか)き水は赤き水とも表現できるから「赤川」としたのだろう、決して赤色(レッド)を想起してつけられたのではない。「青川」はとりわけその名に恥じない川面を見せている。「青石」という「濃飛流紋岩」にはぐくまれた川の流れは、まさにエメラルドグリーンそのものである。「黒川」は黒灰色の「秩父古生層」の岩盤を流れ、ほのかに暗い水面を見、黒灰色の川原に立つと、その名に納得がいく。4河川の命名のいきさつを想像たくましくすると、4河川とも透明な清流だから「白川」でいいのだが、まず見た目が特徴的な「青川」と「黒川」が決まり、残りを「四神」を意識して「白川」と「赤川」にしたのだろう。ある時一斉に「そうしよう」と決めたなら、それはそれで夢のような話だ。さらに夢を追おう。「四神」を配し、中央に鎮座する伝説の帝「黄帝」の象徴である「黄色」の川はあるのだろうか。「黄色」は黄河の色で、古代中国文明では最も尊い色だ。あまりにも畏れ多いということか、公に認められた「黄川」はここ「二ツ森山」周辺にはないが、地元民が名乗りを上げている川がある。「赤川」の尾根越しの恵那市中野方町を流れる「中野方川」、中津川市蛭川を流れ、「黒川」と分水嶺を挟んだ「和田川」がそれである。中津川市川上(かわうえ)を流れる「川上川」の左岸に「黄川橋(おうかわc0134145_1831098.jpgばし)」という地名があり、バス停の名前にもなっている。果たして「川上川」が「黄川」であろうか。皮肉にも、旧川上村の住民は前二者の「黄川」論争には無関心である。                                                                                                                   左 《黄川橋バス停》         《清流「緑川・青川(付知川)》                                                                                                                     c0134145_1943729.jpg
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# by baba72885 | 2007-08-31 22:10
 花無山は鼻の形、耳成山は耳の形                                        「花なしの峯にすみける鶯のおのれと鳴きて春を知るらむ」   西行               岐阜県恵那市東野地内の「花無山(はななしやま)」には、次のような地名伝説がある。「むかし、西行法師が東国行脚の帰路に中野村(恵那市長島町中野)で休息した。秋の半ばごろであるのに、東の山一面に花が咲いているように見えた。その花を見ようと思って東野に入り、その山に登ってみたが花はどこにも咲いていなかった。このときから、この山を「花無山」と呼ぶようになった。」というものだが、伝説としてはかなり苦し紛れの稚拙な作品である。「花無山」とは、ロマン漂う漢字の名前ゆえに、その人は懸命にその由来を考えたが、よくわからずこんな地名伝説を流布したのだろうか。                                          西行がこの地を踏んだことは信じられるし、詠んだ歌も事実であろう。とするならば、西行はこの地の人が往古以来、「はななしやま」といって親しんでいる山に心を驚かし、この歌を詠んだに違いない。いや、西行が見た「はななしやま」はまさに「花成す山」で、全山花だらけである様子をイメージして詠んだのかもしれない。 「なし」は「無し」ではなく、名詞を修飾する接尾語の「なし」であり、「~に似ている」「~のようだ」という意味だ。山梨県の山梨も「山成し」「山甚し」であり、山がちな甲斐の国を良く表している地名だ。東京の「亀有」は、元は「亀無し」だった。幕府は縁起を担いで瑞祥地名の「亀有」にしたものだ。                             さて、「花無山」の地名由来は果たしてなにか。山の名前は、まずその姿、形からつけるのが普通である。ヒントは大和三山の「耳成山」にある。「耳成山」は「耳無山」「耳梨山」と表記してある文献もあるらしいが、標高139、2mのその等高線をみると、緩やかな円錐形の山容を示している。だからどこから見ても人の耳が大地から突き出たように見える、まさに「耳成山」だ。写真で見ると、肉眼よりいっそう人間の耳の形に見える。大和には「耳無山」についての地名伝説があるが、これまたお粗末なのでここに紹介するのをやめる。                          「花無山」は人の鼻の形に似ていることから名づけられた、即ち「鼻成山」である。中央道恵那IC付近は、古代東山道の推定経路になっているが、そこから見る「花無山」が私には一番良い曲線の鼻に見えるのだがどうだろうか。ところで、「花無山」の両隣の山は、それぞれやはりその特徴ある山容から命名されている。山頂付近が凸凹(でこぼこ)している「保古(ぼこ)山」と平らで滑らかな「鍋(なめ・なべ)山」である。ロマン香る恵那三山は、宮処の大和三山とはまた趣を異にした鄙の国の山だ。一度現地へ赴くか、国土地理院の地形図でその豊かな山容を確かめてみてはいかがでしょうか。                                     左 《花無山》 手前は中央本線下り列車    右《大和三山の耳成山》c0134145_2135584.jpgc0134145_2133636.jpg                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          
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# by baba72885 | 2007-08-25 23:35