地名の由来が一目でわかる!


by baba72885
服部英雄著(「地名の歴史学」角川叢書 2001,4 三版)によると大和国、山城国、近江国での古絵図をもとに、残存地名の実地調査を行い、鎌倉時代の地名の半数(場所によっては8割近く)、室町時代の6~7割以上が残存し、通称地名を収集すれば残存率はさらに高まるとしている。中世以前の地名についても、かなりの残存率を示すのではないかと思われ、地名は一度つけられると、みんなが同意しただけに簡単に変えたり、消えたりはしないのだろう。みちのく仙台周辺の地名を五万分の一地形図に拾い、簡便な分類をしよう                               ① 自然地名                                                    仙台の自然地名は西部の山地、丘陵部に「窪・松倉・大谷地・塩野沢・塩ノ瀬・赤坂」等、海岸平野に「赤沼・四ツ谷・荒浜・平」等があり、見た目を素直な言葉に表したものだ。たとえば、「塩野沢・塩ノ瀬」は全国に分布する「塩」地名と同じく「しぼむ・しおれる」という言葉からつけられており、現地は山間地のしぼんだような小さな浅い谷地形である。広瀬川と名取川の合流点の河岸段丘上にある「欠ノ上」はもちろん崖の上のことである。他、それぞれ の地名の由来を考えてみてください。                                  ② 歴史的標準化石地名                                            ○ 古代・・・・「多賀城」は古代律令国家の東北経営の根拠地となった地であり、陸奥国の国 府の機能も果たしたあまりにも有名な地名だが、その由来は良くわからない。ただ、漢字の「多賀」は縁起のよい瑞祥地名だ。「三条町・五反田」は古代の条里制に関する地名だが、青葉区北山の「三条町」は水田地帯でないので条里遺構とは思えない。           ○ 中世・・・・「四郎丸」は、四郎丸という農民が開拓した荘園の私有地を示しており、全国的には「~丸・~名・~光」等の人名が見られ、これを「名田百姓村」という。「要害・舘・高館」等は関東から東北にかけて割拠した豪族の居住地である「豪族屋敷村」であり、中部から西日本には「根古屋・箕輪・土居・堀之内」等の地名が見られる。「宿」地名は江戸時代の宿場町とは違って、いざ鎌倉街道の宿駅である。「三日市・今市」はそのものズバリで、定期市場の開かれた場所である。「北在家・中在家」の「在家」とは、中世には屋敷・田畑を持つ富裕農民のことで、近世では本百姓にあたる。                                ○ 近世・・・・戦国・江戸時代には城下町の整備が進み、武家屋敷の外側に職能別に町人町が形成された。青葉城下には「鉄砲町・南材木町・南鍛冶町・穀町・川内大工町」等が見える。また、江戸時代の諸藩は競って新田開発を行い、新たな居住地に新地名が誕生していった。若林区の「藤田新田」は藤田某が開発した新田に違いない。他に「新田・上新田」がある。「街道・新宿・二軒茶屋」の地名からは江戸時代の香りがしてくる。       ○ 近現代・・・明治以降度重なる合併促進による「合成地名」や「瑞祥地名」、公募で名づけられた団地やニュータウンが出現した。仙台の団地名は現地の地名をかぶせたものが多く「錦ヶ丘・住吉台・茂庭台」等落ち着いた名前である。「栄・あけぼの町・日の出町・県道 前」も一目でわかる現代地名で、その由来は言うまでもない。                  その他、「神明・念仏・庚申・若宮前・太子堂・寺前・山神・明神」のように、通俗・信仰に関する 地名が非常に多いのが目に付く。「今成・三所・古内・八乙女・国見・種次・余目・舞台・小角・愛子・田子」等ここ仙台は何故か魅力的な地名が多い。その由来もきっと奥深いものだろう。                                       
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# by baba72885 | 2007-09-01 20:54
 白はホワイトではなく、赤はレッドとは限らない。                                      中部山岳地帯には、その名に黒、赤のつく山が多い。「大黒岳、黒姫山、黒岳、赤岳、赤牛岳、赤岩岳」と枚挙に暇がない。親しい登山家にきくと、おおむねその名は山体を形成する岩石の色を表しているという。朝日、夕日に映える峰が周辺の山々に比べて、特に黒く赤く見えるというわけだ。なるほど、八ヶ岳主峰の「赤岳」は、確かに噴出した安山岩、玄武岩の風化した鮮やかな赤い姿を朝な夕なに見せてくれる。                                  ところで、川の色についてはどうだろうか。岐阜県東南部に「二ツ森山(1223m)」がある。その山容が特徴的であり、比較的容易な登山ルートと日本アルプスを望む眺めのよさで人気がある。古くから、雨乞いの山として知られているが、今ではハンググライダーのメッカにもなっている。この山の周囲をめぐる川の名前に注目したい。「二ツ森山」の西側、加茂郡白川町、東白川村を西に流れ、飛騨川に注ぐ「白川」は途中で「黒川」と合流するが、「黒川」はまた南から流れてきた「赤川」とも合わさっている。一方、「二ツ森山」東側の中津川市には付知町、福岡を南流する「付知川」があり、「恵那峡」で「木曽川」に合流する。この川は地元では「青川」とか「緑川」と呼び慣わし、スナックや喫茶店の名前にもなっている。全国広しといえども、「黒・青・赤・白」の名の川が一箇所に揃っているのはここだけである。お気づきと思うが、この4色は古代中国の「四神」である「玄武(黒・冬)・青龍(青・春)・朱雀(赤・夏)・白虎(白・秋)」の色ではないか。高松塚やキトラ古墳の壁画を待つまでもなく、ここに川の名に姿を変えた「四神」が東美濃の大地をしっかり守ってくれているのだ。しかし、川の名が初めから「四神」を意識してつけられたとは思われない。この4つの川はいずれも鮎のとも釣りで賑わう渓流であり、川底まで透き通る清流だ。日本の山河を表現した「山紫水明」の明き水とは、何の汚れもない純粋にして清らかで透明な水のことであり、日本人は「明白」とか「白日」、「白水」といってその透明感を「白」で表した。「白川」とは、その水が無色透明で澄みきった川という意味だ。また、明(あか)き水は赤き水とも表現できるから「赤川」としたのだろう、決して赤色(レッド)を想起してつけられたのではない。「青川」はとりわけその名に恥じない川面を見せている。「青石」という「濃飛流紋岩」にはぐくまれた川の流れは、まさにエメラルドグリーンそのものである。「黒川」は黒灰色の「秩父古生層」の岩盤を流れ、ほのかに暗い水面を見、黒灰色の川原に立つと、その名に納得がいく。4河川の命名のいきさつを想像たくましくすると、4河川とも透明な清流だから「白川」でいいのだが、まず見た目が特徴的な「青川」と「黒川」が決まり、残りを「四神」を意識して「白川」と「赤川」にしたのだろう。ある時一斉に「そうしよう」と決めたなら、それはそれで夢のような話だ。さらに夢を追おう。「四神」を配し、中央に鎮座する伝説の帝「黄帝」の象徴である「黄色」の川はあるのだろうか。「黄色」は黄河の色で、古代中国文明では最も尊い色だ。あまりにも畏れ多いということか、公に認められた「黄川」はここ「二ツ森山」周辺にはないが、地元民が名乗りを上げている川がある。「赤川」の尾根越しの恵那市中野方町を流れる「中野方川」、中津川市蛭川を流れ、「黒川」と分水嶺を挟んだ「和田川」がそれである。中津川市川上(かわうえ)を流れる「川上川」の左岸に「黄川橋(おうかわc0134145_1831098.jpgばし)」という地名があり、バス停の名前にもなっている。果たして「川上川」が「黄川」であろうか。皮肉にも、旧川上村の住民は前二者の「黄川」論争には無関心である。                                                                                                                   左 《黄川橋バス停》         《清流「緑川・青川(付知川)》                                                                                                                     c0134145_1943729.jpg
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# by baba72885 | 2007-08-31 22:10
 花無山は鼻の形、耳成山は耳の形                                        「花なしの峯にすみける鶯のおのれと鳴きて春を知るらむ」   西行               岐阜県恵那市東野地内の「花無山(はななしやま)」には、次のような地名伝説がある。「むかし、西行法師が東国行脚の帰路に中野村(恵那市長島町中野)で休息した。秋の半ばごろであるのに、東の山一面に花が咲いているように見えた。その花を見ようと思って東野に入り、その山に登ってみたが花はどこにも咲いていなかった。このときから、この山を「花無山」と呼ぶようになった。」というものだが、伝説としてはかなり苦し紛れの稚拙な作品である。「花無山」とは、ロマン漂う漢字の名前ゆえに、その人は懸命にその由来を考えたが、よくわからずこんな地名伝説を流布したのだろうか。                                          西行がこの地を踏んだことは信じられるし、詠んだ歌も事実であろう。とするならば、西行はこの地の人が往古以来、「はななしやま」といって親しんでいる山に心を驚かし、この歌を詠んだに違いない。いや、西行が見た「はななしやま」はまさに「花成す山」で、全山花だらけである様子をイメージして詠んだのかもしれない。 「なし」は「無し」ではなく、名詞を修飾する接尾語の「なし」であり、「~に似ている」「~のようだ」という意味だ。山梨県の山梨も「山成し」「山甚し」であり、山がちな甲斐の国を良く表している地名だ。東京の「亀有」は、元は「亀無し」だった。幕府は縁起を担いで瑞祥地名の「亀有」にしたものだ。                             さて、「花無山」の地名由来は果たしてなにか。山の名前は、まずその姿、形からつけるのが普通である。ヒントは大和三山の「耳成山」にある。「耳成山」は「耳無山」「耳梨山」と表記してある文献もあるらしいが、標高139、2mのその等高線をみると、緩やかな円錐形の山容を示している。だからどこから見ても人の耳が大地から突き出たように見える、まさに「耳成山」だ。写真で見ると、肉眼よりいっそう人間の耳の形に見える。大和には「耳無山」についての地名伝説があるが、これまたお粗末なのでここに紹介するのをやめる。                          「花無山」は人の鼻の形に似ていることから名づけられた、即ち「鼻成山」である。中央道恵那IC付近は、古代東山道の推定経路になっているが、そこから見る「花無山」が私には一番良い曲線の鼻に見えるのだがどうだろうか。ところで、「花無山」の両隣の山は、それぞれやはりその特徴ある山容から命名されている。山頂付近が凸凹(でこぼこ)している「保古(ぼこ)山」と平らで滑らかな「鍋(なめ・なべ)山」である。ロマン香る恵那三山は、宮処の大和三山とはまた趣を異にした鄙の国の山だ。一度現地へ赴くか、国土地理院の地形図でその豊かな山容を確かめてみてはいかがでしょうか。                                     左 《花無山》 手前は中央本線下り列車    右《大和三山の耳成山》c0134145_2135584.jpgc0134145_2133636.jpg                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          
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# by baba72885 | 2007-08-25 23:35
空を見上げて感嘆の声をあげてみよう、あごが上がって苦しいが、誰もが「ア・ウ・オ」の母音が混ざった音声になる。広がる空の色を「アオ」にしようと誰かが言い出して、みんながそれに同意した。「青空」の誕生だ。「オオ」の声からは、大きいという言葉も生まれたに違いない。「大空」の誕生だ。空を見て「アッ」「アツ・暑」とびっくりし、「カッ」と照りつけるお日様の色は「アカ・赤」となった。そうだ、地名も素直な感動の声や伝えたい気持ちから、自然に付いていくのだろう。     青い大空に真っ赤な太陽、漂う白雲と青(大)海原は「湘南海岸」ではなくて、「邪馬台国」への路に栄えていた古代の「マツラ国」「イト国」の故地、佐賀県唐津の「虹の松原」で生まれた言葉かもしれない。                                                   さて、青森の地名由来は、青森市本町5丁目にあった「青森山」という小高い丘から名づけられたという説は正しいと思う。日本人は青も緑も「アオ」というが、「青森山」は「アオい森の山」という意味ではなく、地名の場合はその形を重視し、人の意識は「大盛山」であったと思う。全国の森地名を地図に拾うと、ほとんどが山の名前になっている。「森」はフォレストではなく、マウンティンなのです。「○○森」は平地から見て「こん盛りした山」を表している。「二つ森山」「三森」 等は峰の数であり、「飯盛山」は茶碗に盛ったご飯の姿だ。(注)目からウロコの地名由来 「大室山」の地名由来参照                                明治4(1871)年の廃藩置県では信濃国で「長野vs松本」のように県都をめぐり、死闘を演じたところがあるが、陸奥国においても弘前藩10万石の城下町弘前と盛岡藩8万石の港町青森は江戸時代からライバルだった。はじめはいったん弘前県となったが、すぐに県庁を青森に移し、青森県とした。港町の青森は蝦夷(北海道)経営の前線基地でもあり、大陸にもつながる海の玄関口として県都にふさわしいとされた。しかし私は違った見地から、心から弘前県でなくて良かったと思う. 青森県の地図を見てください。下北や津軽山地には少ないが、全県にわたって「○○森山」を含めて「○○森」の多いこと限りなし。全国を訪ねてもこれだけの密度を誇る都道府県はありません。25万分の1道路地図を見ても、ざっと80以上ある。もっと詳しい地図にはどれほどの「森」が姿を現すであろうか。特に、弘前市のある津軽平野の四方を囲む山々はほとんど「○○森」で、ふるさとの山「岩木山」周辺は驚くべき密集地帯です。弘前は「森」に囲まれ、四面楚歌の状態に陥っている。「陸奥」はまさに「森の国」です、青森は「森の国」にふさわしい県と県庁所在地の名前なのです。                                     泣くな弘前、そこに弘前城があるじゃないか、旧制弘前高校を設置し、国立弘前大学へと学問の都として歴史に息づいている、青森なんぞは何するものぞ。このことは、長野に県都を譲った松本も同じだ、松本城と旧制松本高校、そして国立信州大学に松本市民は、誰にも負けない高いプライドを持っている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                 
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# by baba72885 | 2007-08-21 21:04
 ハゲ・ボケは、警戒警報の地名で、最も始原的な日本語だ。                                柳田国男著、初版「地名の研究」(「角川文庫」 S43)によると、昭和10年12月に著した自序の中で、日本の地名を問題にした端緒は、「田代」・「軽井沢」の地名に注目したのに始まるとしている。本文中では、地名の研究について「いろいろの文化現象に興味を持ち、また自然と社会との各方面の知識をも用意しなければならぬ」と、安直な知識で軽々しく扱ってはならぬことを戒めている。また、地名は「われわれの生活上の必要にもとづいてできたものであるからには、必ず一つの意味を持ち、それがまた当該土地の事情・性質を少なくともできた当座はいいあらわしていただろうという推測ができる。・・・普通にはたとえ誰からいいはじめても、他の多数者が同意をしてくれなければ地名にはならない。・・・よほど適切に他と区別しうるだけの特徴がとらえられているはずである。」(p70)とのべている。そして、「地名はどこの国でも、普通はまず地形によってつけるが、それで間に合わなくなると人文・社会的な土地の特徴を地名にしていく」(p73)としている。本文の「地名考説」の各項目において、具体的な地名考証を行い、日本の地名研究のバイブル的な存在となっている。                                  「地名考説」の中で取り上げられた一つの例をあげよう。                       「谷川の両岸の狭まっている所をホキ・ホケ・ハケという。」(p22)という記述からとっさに四国徳島の「大歩危(オオボケ)・小歩危」に思い当たる人は感覚のよい人である。しかし、柳田先生はなぜそういう地形の場所を「ホキ・ホケ・ハケ」というのかということまで言及されていない。    浅学・非才を省みず、例によって音韻から考察してみよう。「キ」・「ケ」はカ行の語句である「崖・切る・殺す・苦しむ・蹴る・暗い」等の「厳しくて険しく過激」な言葉の意味を持つ。そしてハ行の音韻は一見腑抜けのような印象を受けるが、実は中にはカ行と同じ意味を持つ音韻のものがある。たとえば、「ジンギスカンとチンギスハン」の例は「汗」を「KHAN」と発音するが、その発音が「カン」にも「ハン」にもなった。「漢」を中国語とハングルでは「ハン」と発音するが、日本人にはその音が「カン」と聴こえたのだろう。つまり「ホキ・ホケ・ハケ」は険しく、危険な地形の土地を表し、数ある地名の中でも、漢字が伝わる前からの原初的な地名であると考えられる。     全国的に見られる地名では「「ホキ・ホケ・ハケ」から「ボキ・ボケ・ハゲ・ハキ・ワキ」等に変化が見られ、「保木・歩岐・歩危・祝・崩・禿・脇」等の漢字表記が見られる。岐阜県美濃市の長良川左岸には実にご丁寧にも「保木脇・ホキワキ」という念の入った地名がある。よほどの崩壊地かなにか危険度の高い場所だったに違いない。同じく岐阜県加茂郡の坂祝町は難読地名のひとつだが、「サカホギ」 と発音し、いかにも危険な坂道を思わせる地名だ。印象の悪い発音の地名を、そこに暮らす常民が「言祝ぐ・ことほぐ」という縁起の良い音の漢字を借用して「坂祝」と表記した。当地は木曽川の両岸が狭まり、峡谷となっている「日本ライン下り」の景勝地でもある。  蛇足だが、坂祝町には「酒蔵」や「勝山」という地名が隣接してあり、地元では地名伝説の物語ができている。つまりある武将がこの地で戦いに勝利し、酒を飲んで祝し、その山を勝山としたというわけだ。 実は「サカグラ・酒蔵」もまた崩れやすい急坂の意味だ。                                           左《高知県四万十市半家(はげ))      右《大歩危駅》c0134145_17313778.jpgc0134145_1732031.jpg                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       
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# by baba72885 | 2007-08-20 21:38